~ボランティアガイドMさんより~
【唐古養福寺の初薬師】 1月8日
《馬も膝まづぃて拝んだという薬師っさん》
『田原本町の佛像』から 昭和57年頃の夏。唐古薬師講・天文19年(1550)宿院仏師源次作
正月八日は「初薬師」と呼ばれて薬師如来の縁日である。地方の「やくっさん」では薬師講がいとなまれて、その年の家内安全や身体の健康諸病平癒を祈願する。年のはじめ、まず唐古の養福寺をお参りした。お祈りは終わっていたが綺麗な厨子を開扉いただき拝見できた。
【宮古薬師堂の薬師講】1月8日
《まめ薬師、耳の病を癒してくれる薬師っさん》
まめ薬師の「まめ」は「たっしゃ」なことを意味する。かつては沢山な錐が供えられていたが今は見ることがない。
この日薬師堂を訪れるとすでに般若心経のお念仏は終わっていたが、ありがたいことに再演していただいた。さぞ仏さまたちもお喜びだろうと大笑いになった。
『田原本町の佛像』によると桧の一木造りで像高96cm余、大変どっしりとしたお像である。像は平安初期一木彫像の特徴を備えていて制作は九世紀末から十世紀初頭の作という。田原本町の佛像の中では最古のもの。国の重要文化財指定になっている。
「薬師っさん」は仏さまでありながら特定の宗派に関わりなく地方のあちこちで人々の生活を見守ってくれている。田原本町では十一軀(く)の「薬師如来坐像」がおいでになるが、寺院の中ではなくて境内の隅や村のお堂(会所寺)に祀られている。人々に親しまれた薬師っさん、その信仰は今も強くのこっている。
【大網薬師堂の薬師っさん】1月8日
《かつては餅まきで賑わった薬師っさん》
お像は室町時代前期の作。
午後4時からいとなまれた大網の初薬師。陽ざしはあっても強風で幕などははずれてしまう始末。地元教行寺住職のお念仏のあと、お供えの紅白の餅は村の各戸へ配られる。
大網の「薬師っさん」、とりわけ目だった仏さんではないが、地域の人々の健康をまもる、無くてはならない仏さんとして慕われて来たといいます。かつては櫓を組んでその上から餅ゃミカンを投げ、子どもたちが競い合って拾った様子は記憶にあるが、遠い昔のことと迎田住職さん。
【法貴寺千萬院の薬師っさん】1月12日
法貴寺の「薬師っさん」は1月12日である。なぜこの日なのかは誰も知らない。かつては二十数余の塔頭をかまえながら、今は「千萬院」を遺すのみである。この千萬院に廃仏希釈にたえたお像たちがまつられている。そこには重要文化財の「不動明王像」があり、中世後期、宿院仏師が腕を競った仏たちが安置されている。最近奈良県指定の「十一面観音像」も加わって、千萬院はまさに田舎の古刹といえよう。
さて法貴寺の『薬師っさん』は1月12日と7月12日の年二回法要がある。生駒の寶山寺から貫主の大矢実圓師(90歳)がこられておつとめがある。師は3年前コロナに感染、九死に一生を得てここにこられたのは「聖天さん」と「薬師っさん」のおかげと話されていたのが印象深いことであった。かつては護摩焚きが堂内で行われていたが、重文化財や匹敵するお像が多くあり、火の元は危険だということで廃止された。
神仏習合のなごりか、池神社に般若心経を唱えてから薬師っさんの法要がある。
【蔵堂浄福寺所在の薬師っさん】
《かっては蔵堂ムラ中の「薬師垣内」に在ったが、明治初期の廃仏毀釈で浄福寺に移されたという「8日薬師っさん」》
薬師如来は室町時代後期寄木造りの素地。玉眼が鋭い。堂内には横一ぱいに薬師を護る脇侍、十二神将が揃うが江戸時代の作
※薬師講の人たちは月の8日の朝お堂にお参りする。般若心経を唱えてお喋りをするのが通例だが、住職の都合で変わることもあるとか。かってはお堂にあふれるほどの人たちが、コロナ以降今では数人までになっているとのこと。
浄福寺へは2月1 1日に伺った。かって前には村の集荷場があったが今は無くなっていて空地となり、春の陽をうけた上層六角、下層方形の御堂を際立たせている。お寺の開基は元亀二年( 1571 )と住職ご夫妻に案内いただいた。ご本尊は坐像としての来迎彫刻で珍しく、奈良県の文化財として指定されていて3月9日すぎまでは奈良県指定の文化財出展のためお留守である。山門近くに立っモチノキは相当の老木に見受けたが、写真右にそびえるごとくそれなりに今日まで寺院と共にしてきたのかも知れない。